行く川の流れは ― 2010年12月23日

友人K君の採用が決まったので、久しく連絡を取っていなかった友人に「お祝いしよう」と電話しました。みんな喜んでいて(律儀なK君はすでにみんなに連絡してありました)、ほとんど一緒に年を越してしまいそうな日時設定にも拘わらず、予定の空いている人はみな二つ返事で「いいね、やろう。」ということになりました。これもK君の人柄です。積もる話はその時ということで、たいした話もしませんでしたが、短い話の中でもそれぞれにいろいろなことがあったみたいです。自分の時間が動いているんだからみんなの時間が動いてるのは当たり前に決まっているんですが、不覚にもなんだか友人たちは以前の友人たちのままのような気でいたんだと気づきました。これは恐ろしいことです。そして、とても恥ずかしいことです。変化こそが生命の本質なんですから。
以前読んだ宮崎駿さんと養老孟司さんの対談(『虫眼とアニ眼』新潮文庫)で、養老さんが「現代の人間は自分は変わらないと思っているが、本来人間は絶えず変わっていくものだ。それに対して、変わらないのは情報だ。情報は止まっているものだ。だから何度でも同じものを見られる。同じ映画でも見るたびに受け止め方が変わるのは、見る側の人間が変わっていくからだ。その変わっていく人間と、変わらない情報とを、現代社会は混同してしまっている。」といった趣旨のことをいっていて、「そんなもんかねぇ」と思ったもんですが、いつの間にか自分がそうなってしまっていたようです。それはつまり、自分にとって友人たちが遠い存在になってしまっていたことを意味します。
同じ本で養老さんはこうも言っていました。
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」
っていうのはつまり、鐘の音っていつも同じなんです。それが違って聞こえるというのは、人がひたすら変わっていくからでしょう。あるいは、
「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
川というのはいつもそこにあって、情報としての川は止まっています。けれども僕が見た時とあなたが見た時では水はやはり変わっているんですよ、という意味です。そう思ったら、人間もやはり川なんですよね。
川がそこにあることに違いはないけれども、昨日の川と今日の川は違う。変わらなくなるのはその川が消えた時だ。当たり前の話です。
昨日、K君からの吉報の前に、元同僚のお父さんが亡くなったことを聞きました。まだお若いはずです。ご冥福をお祈りしたいと思います。悲しい知らせと嬉しい知らせ、人生はあざなえる縄のごとしとはよくいったものです。
物理的、時間的距離に比例して、親しかった人たちが遠い存在になっていってしまうのは一面仕方のないことなのかもしれません。でも、せめて「みんな今頃何してるかなぁ・・・」くらいの感覚を持っていたいと思います。
以前読んだ宮崎駿さんと養老孟司さんの対談(『虫眼とアニ眼』新潮文庫)で、養老さんが「現代の人間は自分は変わらないと思っているが、本来人間は絶えず変わっていくものだ。それに対して、変わらないのは情報だ。情報は止まっているものだ。だから何度でも同じものを見られる。同じ映画でも見るたびに受け止め方が変わるのは、見る側の人間が変わっていくからだ。その変わっていく人間と、変わらない情報とを、現代社会は混同してしまっている。」といった趣旨のことをいっていて、「そんなもんかねぇ」と思ったもんですが、いつの間にか自分がそうなってしまっていたようです。それはつまり、自分にとって友人たちが遠い存在になってしまっていたことを意味します。
同じ本で養老さんはこうも言っていました。
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」
っていうのはつまり、鐘の音っていつも同じなんです。それが違って聞こえるというのは、人がひたすら変わっていくからでしょう。あるいは、
「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
川というのはいつもそこにあって、情報としての川は止まっています。けれども僕が見た時とあなたが見た時では水はやはり変わっているんですよ、という意味です。そう思ったら、人間もやはり川なんですよね。
川がそこにあることに違いはないけれども、昨日の川と今日の川は違う。変わらなくなるのはその川が消えた時だ。当たり前の話です。
昨日、K君からの吉報の前に、元同僚のお父さんが亡くなったことを聞きました。まだお若いはずです。ご冥福をお祈りしたいと思います。悲しい知らせと嬉しい知らせ、人生はあざなえる縄のごとしとはよくいったものです。
物理的、時間的距離に比例して、親しかった人たちが遠い存在になっていってしまうのは一面仕方のないことなのかもしれません。でも、せめて「みんな今頃何してるかなぁ・・・」くらいの感覚を持っていたいと思います。
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