四万十都市伝説 なぞのリボン2011年01月24日

 現物の写真がなくて残念なんですが、昨年、幡多地域の人々を不審がらせた出来事がありました。幡多郡内中の道路沿いの木々に、カラフルに塗装され、リボンを付けられたペットボトルがぶら下げられていた、ただそれだけのことなんですが、数が半端じゃなかった。いつ頃からあったかも不明なんですが、気がついたら至る所にペットボトルが下がっていたんです。最初はゴミかと思いました。次に、何かの調査だと思いました。みんな同じだったらしく、
「あれは農業関係の調査機関が虫を調べてるんだ。」
とか、
「蜂を捕るトラップだ。」
とか、
「木に車が当たらないように山師が付けた目印だ。」
とか、ありそうななさそうな話が飛び交いました。ムラのいつもの飲み会でも話題になって、結局、「なんか虫を行政がなんかしてるって聞いたぜ。」ということでおさまりました。

 そんなさなか、このペットボトルについての記事が高知新聞に載りました。そこに書かれていたのは、「行政も研究機関も無関係。誰がやっているのか目撃者もいない謎のペットボトル。虫退散みたいなことが書かれているから宗教関係かも。」みたいな内容でした。それまで誰もがなんかの公的機関がやっているものとばかり思い込んでた暢気さがすごいでしょ。でも、この記事が出てからというもの、このペット、あっという間に姿を消しました。行政が片付けたようです。林道の奥にはまだあるということですが、その写真を撮るためだけに林道にはいるというのもねぇ。

 ということで、それまでは見たくなくてもどこにでもあった謎のペットボトルの写真はありません。が、先日平野の漁港に行く道で似たようなリボンを見付けたんです。見えます?
なぞのリボン
港への道沿いの木や草にピンクのリボンが矢鱈めったら結ばれています。港に着くと防波堤にまでリボンが!!!しかもご丁寧にコンクリにネジが打ち込まれてとまっています。
なぞのリボン

あのペットボトルが形を変えて帰って来た!!
・・・・と思ったのも束の間。そのネジをまじまじ見たら
 「 地籍調査 」
と書いてありました。でも、ホントは謎のペットボトルの再来かも。
僕はまだ信じたわけではありません。
今度は欺されないぞ。

追伸:例のペットボトルを付けている人の目撃情報はないと新聞に書いてありましたが、隣のNさん家の息子さんがおっちゃん二人が軽トラで付けているのを見たと言ってました。貴重な目撃者かも。

四万十 三里に眠る遺跡の話 補足の二2010年08月05日

夏ですね
 おんちゃんの話から 三里に伝わる伝説の話し。

 この村にはえらい坊さんが緋衣を着てやって来たという話が伝わっている。緋衣は身分が高い証。これが実は平家物語で名高い熊谷直実だったと聞いた。当時、船が京都の西舞鶴から通っていた。直実はその船に乗ってきたという。今、三里の部落に熊野の牛王宝印の版木が残っているが、それは熊谷直実が持って来たものだという。この話は大正生まれの広田カオル(字が分かりません)という県の役人から聞いた。

 三里の金比羅さんと島の宮の観音さんは向き合って立っている。こういう仏さんの立て方は珍しい。何か意味があるものらしい。(kawatarou注:長野の善光寺の観音さんと長野県上田市別所にある北向観音は向き合って立てられていると言います。いずれか片方だけにお参りすることを「片参り」といって忌み、必ず二つセットで参拝しなければならないと言われています。あるいは民俗学では、二柱の神の間は通りがたいものとして境界防御であると考えます。こういう考え方と何か関係があるのでしょうか。)

 三里の集落内に今は四つ辻になっている「船塚」という土地がある。ムラの人は「ボケさん」と呼ぶ。ここは19尺(約6メートル)下に船が埋まっているという伝説がある。ここの地下は水が湧く所だから、本当に船があれば保存状態はいいはず。

 伝説ですから全てが史実とは言えないかもしれませんが、歴史のロマンを感じます。

四万十 三里に眠る遺跡の話 補足2010年08月04日

 おんちゃんの話の続き。
 三里がかつて貿易港だった証拠は他にもあります。

①本願寺・東福寺・蓮台寺・常楽寺といった京都ゆかりの寺が一帯に残っている。蓮台寺の大日如来の台座には、平安時代の銘がある。
②佐賀、鍋島家の末裔や、九州出の人が今も住んでいる。 等々

 おんちゃんの話では、江戸時代の寛文6(1666)年までは三里の上の手洗(たらい)が港で、この年に起きた大洪水以後、下田に港が移ったそうです。鍋島、竹島、楠島と言った土地はこれ以前は本当の島だったものが、大水が引いたら陸になっていたんだそうです。

 この大水は記録にも残っています。

寛文六丙午七月七・八両日大風水、大川筋・小谷つへぬけ(山崩)埋り、大川筋皆々流失、人馬流死致す。中村下町大堤(岩崎堤防)切れ、家一軒も不残、町は川原に成。死人夥敷事成。

どうやら崩土により堰き止められた水が決壊したらしいんですが、三里ではこの時の大水を「みな泣きながら家にとりついたまま流されていった」と言い伝えています。

三里の遺跡、このまま眠らせておくのは惜しい気がします。

四万十 三里に眠る遺跡の話 その32010年08月03日

一体何が・・・
 証拠の遺物まで出てきているのに、なぜ三里の遺跡が本格的に発掘されないか。実はその理由が分からないんです。市が2m×150mにわたり試掘して、直径1メートルの柱が出ています。炉の跡に砥石とチョウナがセットで出てきたこともあります。当然本格的に発掘となるはずなんですが、なぜかそうならない。区長が動いたはずが、なしのつぶてになる。市議が動いてたはずが、話が立ち消えになる。「あればぁやる言うとったに!なし(訳:何でだ)!」とおんちゃんが問い詰めた所、その市議さんは「止められたがよ・・・。」と答えたそうです。「誰に!」と聞くと、「それは言えん。死んだち言えん。」・・・・一体何があるんでしょう。
 おんちゃんはそれでも諦めず、県知事にかけ合ったり、出来る所は片端から働きかけをしました。でも、発掘には至っていません。三里遺跡が日の目を見る日は来るのでしょうか。

幡多都市伝説2010年02月12日

シマントの夕陽
嘘かほんとか四万十都市伝説。少し範囲を広げて幡多編。

①弁慶が大方に来たことがある。
②紫式部も幡多に来たことがある。
③「四万十」という名はアイヌ語で「はなはだ美しい」と言う意味だ。
④幡多弁は標準語(京都語のこと。小京都なので)に近い。
⑤土佐清水にある唐人駄馬は宇宙人が作った。

少し検証してみます。
①たしか『義経記』で見たことがある気がします。本当かどうかはともかく(そもそも弁慶は架空の人物ですからね)、記録にあることはあったと思います。
②はて?どうしてこんな話が出たんでしょうかね。
③以前も書きましたが、これは寺田寅彦が「シマント」を仮にアイヌ語で解釈するとどうなるかと遊びでやったことなので、ロマンは感じますが、多分ホントではありません。
④アクセントの部分で多少言えると思いますが、違うと思います。でも、古語が残っていることはしばしば見受けられます。
⑤ん~どうでしょう?
 
おまけ
⑥先日85歳のおじいさんが原付で30キロオーバーでつかまった。おじいさんは「こんなタヌキばぁしか通らんような道で捕まえるな!!!」と白バイにくってかかった。
⑥検証→本当みたいです。

今日は二十日です2009年10月20日

四万十川・後川合流点
 今日は二十日です。嘘かホントかは知りません。だから責任は持てません。四万十では、「20日は警察が交通取り締まりを強化する」という話が誠しやかに私語かれます。嘘かホントか知りませんが、そう言われてみると、確かに今日はパトカーと白バイをたくさん見た気がしてきます。皆さん、ルールを守って安全運転を心がけましょう。