へちごと2014年07月30日

へちごと。
こちらの言葉で「どうでもいいこと」です。

もう一ヶ月も前になりますが、野暮用があって東京へ行きました。いつもながら、大都会ですね。

ついでに、昔よく出歩いたあたりをぷらぷらと。
友人kが酔っぱらってお世話になった警察署や

よく行ったラーメン屋の暖簾分けに行ってみたりしました。

さらに、私の「一番最初の東京」へ。
厳密には神奈川ですけど。
ここに関しては、もう隔世の感。20年ですもんね。無理もない。
よく行ったキッチン南海はもはやなく、
貸本屋(当時から貴重な存在だった)も閉まっていました。

当時の面影を強いて探してみると、
思い出せたのはこの3軒だけ。特に二番目のトンカツ屋さんは、当時ご飯とキャベツおかわり自由で、漬け物で1杯目を食べ、2杯目はキャベツで、その後トンカツで2~3杯、と大変お世話になりました。

で、何が言いたいのかというと、特に言いたいことはないんです。ただ、世の中ってそうだよなぁ、と妙に腑に落ちました。

もう半年も更新していないので、もう以前から読んでくれてる人もほとんどいないと思いますが、元気にやっております。むしろ毎日更新していた頃より、もっと四万十川や太平洋と親しんで、楽しくやっておりますことをご報告したいと思います。
つい先週の土曜日も、柏島で丸々一日遊んできました。S子は川で培ったエビ玉技術を駆使してルリスズメダイはじめキュウセンやヤマブキベラ等々をどっさりとって見せ、夕方やった釣りでは40センチクラスのハリセンボンを釣る始末。次女U子は体脂肪がほとんどないのですぐに体が冷めてしまうんですが、シュノーケリングの鬼と化し、水からあがりません。末っ子長男みぃたろうもまたしかり。一番最後まで遊んでいました。それぞれたくましく育っています。
子供たちは毎日川で泳いでいます。全員真っ黒で、まさに夏の子供そのもの。私も松崎しげるさんに負けないくらいの黒さになってしまいました。

ここのところ雨がないので、四万十川は少しだけ濁ってきましたが、川がお湯となった去年のようなことはありません。

皆様、この夏は是非四万十川へお越し下さい。
お待ち申しております。

KAWATAROU拝

大雨なので2013年10月24日

半年以上アップをサボりました。
こうなると、再開するにも何か理由が無くてはなりません。

4月から割とパソコンとにらめっこすることも多い仕事に就き、帰ってきてからブログをあげるのにパソコンを開く気にならなかったというのが実のところです。今年に入ってからは、ほんまは書くことが山のようにありました。でも、今更ですね。

今日は大雨で、道がふさがると帰れなくなるので早々に帰ってきました。何となく時間があるので、少しだけ今までの事を書こうと思います。

ちなみに今現在、四万十川本流はほとんどの沈下橋が沈んでいることでしょう。今朝の時点で若井の沈下橋は完全水没。上岡もほぼ水没。帰る時分にはこちらも沈んでいました。岩間も佐田も多分もう沈んだでしょう。おそらく今年一番の出水だと思います。被害が出なければいいのですが。


さてさて、みぃ太郎が自転車に乗れたはなしと前後しますが、

我が家の前の梅も満開。
子供たちはいつものように梅の下でごはん。

四万十川はいつものように一面の菜の花に。

こちらは津野町芳生野の早瀬の一本橋。

やがて桜が咲いて

恒例の向かいのNさん家の花見では皆が木に登って花を散らし

そうこうするうちに私は山を越えて窪川に通勤することになりました。毎日四万十川を拝めて幸せであります。

それからは、四万十川桜マラソンの手伝いをしてみたり

梼原千百年物語に行って神楽を見てみたり、
忙しく時は過ぎていきました。

かたや妻と子供たちは町まで約15キロの道のりを歩いてみたりと新たな遊びを覚えました。

もちろんいつも通り近所の皆さんと貝拾いに行ってみたり、

咸陽島にアサリを掘りに行ったり
いつもの狩猟採集生活はしていました。
もちろんその後のあげも。

田圃の準備が始まって

その頃はイタドリのシーズンで

なぜか道ばたでハクビシンが寝てて起きなかったり、

竜串に行ってロッククライミングをしたりと

あ、そうそう、中土佐のかつお祭りにも行きました。
私はところてんの早食いに出場して惨敗。
しばらく(4日くらい)ところてんが嫌いになりました。

とりあえず、何となく春先の出来事でした。

またそのうちパソコン開いたら続きを書きますね。


食物連鎖2012年06月07日


農作業中に出くわした2つの出来事。昨日書いた事情で写真はありません。シャッターチャンスはありましたし撮れたらどちらも結構すごい画だったんですが、残念です。

1つ目は田圃の畦塗りをしている時のこと。
なんだか変なカエルの声が聞こえます。普通じゃない鳴き声。
悲鳴を上げているような、咳き込んでいるような声。
探してみると、隣の菜園に太い紐みたいなものをぶら下げて跳ねている蛙がいました。紐に見えたのはシマヘビ。食いつかれた蛙が蛇から逃れようと自分よりはるかに大きい蛇を引きずって跳ねてたんです。すごい根性。可哀想にも思いましたし、田圃の虫を食べてくれる蛙を食べられちゃ困るんだよなと、勝手な都合も頭を過ぎりましたが、食う食われるは自然の摂理。
そのまま手を出さずにおきました。

2つ目は畑のナスを見回りしている時。ナスの株もとは乾燥予防と草対策で刈り草と籾殻でマルチングしてあるんですが、その籾殻マルチにでかいムカデが頭を突っ込んで何かしてます。足も尻尾も赤い、例の奴。今年2回も噛まれている相手だけに一瞬殺意が頭を過ぎりましたが、とりあえずなにをしているのか観察。すると、しばらくして丸々肥えたヨトウ虫を抱きかかえて顔を出しました。そうなんです。家の中ではにっくきムカデも、畑では野菜を食べる虫を食べてくれる私の味方なんです。

先日家の中に出たムカデを力任せに叩いて殺したことを少し反省しました。そして、できれば家に出たムカデは外に逃がそうとも思いました。でも、それもこれも根底にあるのは、自分にとって都合のいい生き物だから。都合が悪ければ殺してしまいかねません。人間は勝手です。

「お前もひなたぼっこしたかろう」と自分の着物からシラミを取って日光浴させてやり、「そろそろ帰っておいで」と、また自分の着物にそのシラミをもどした良寛さんにはなかなかなれませんね。

あの雲のように2012年01月30日


更新をだいぶやすませてもらいました。
コメントをいただいたときちゃんさん、しまんと太郎さん、ふくさん、こうみのかあちゃんさん、電話をくださった四万十boyさん、takeちゃん経由で様子を尋ねて下さった菜の花兄ちゃんはじめ、ご心配いただいた皆さん、励ましのお言葉ありがとうございました。

私の父が12月12日に亡くなりました。急なことで、最期には間に合いませんでした。移住を決めた時から、いつかこの日が来るのは分かっていましたし、こうなるかもしれないことを私自身は覚悟を決めていたつもりです。でも、「もう1度おじいちゃんに会いたかった。」と長女と次女に(長男はまだ小さくて分からないので)泣かれた時には、やっぱり堪えました。

そうですよね。もう私の問題だけではないんです。子供たちにとってもそうでしょうし、父もせめてもう1度だけでも孫の顔を見たかっただろうと思うと、その一点が悔やまれます。

このブログは、移住生活をみなさんにお披露目することももちろんですが、私たちにとっては、離れて暮らす双方の親への報告の意味合いもあります。だからよけいに再開を急がなければならなかったんですが、そうはいってもどうしても書く気力が出なかったのが実情です。

この間も色々なことがありました。葬儀を終えてこちらにもどると、びっくりするほど多くの地元の人が弔問に訪れて下さいました。「無理かもしれんけんど、できればここに残ってくれんか。」と言って下さった方も何人もいました。うちの家族が私の里に帰ることになるんじゃないかと思われたんでしょう。ありがとうございます。

先週の日曜日にはTさんの家で私の厄の入り抜けの会を開いてもらいました。「お父さんが亡くなってまだ日も浅いけん、大きな乾杯はできんけんど」と、いつもの皆さんが集まってくれました。いつもに輪をかけたすごい御馳走。夫婦で上座に据えてもらい、Tさんのお父さんに四海波を謡っていただいて、代々受け継がれた(?)輪に夫婦でくぐらしてもらいました。Tさんのお父さんは頼まれても断っていた謡を、Tさんの厄の入り抜け以来十数年ぶりに謡って下さったんだそうです。
みなさん私なんぞのためにありがとうございました。

こちらへ戻ってきて、ここの人たちの温かさが改めて身に染みます。子供たちはそんな人たちに可愛がってもらって、のびのびと育っています。父には申し訳なかったですが、それでもここに移り住んだ選択は正しかったと今でも思っています。

昨日が父の四十九日、そして今日は長女の誕生日です。
今日を機に、また毎日ごとごとと更新していこうと思います。
あいかわらず大したことも書けませんが、よろしければお付き合い下さい。

大人になった2011年08月19日

今週の火曜日、香川の坂出まで子供たちを送ったあとのことを少し。

行きは中土佐から高速を使ったものの、帰りはそんな気にもならず、昨年同様下道で帰ってきました。

大歩危峡を見たり、
大歩危

大歩危



大豊町のゆとりすとパークに行ってみたり。
ゆとりすとから

ゆとりすとから

風力発電の羽

もっとも、ゆとりすとに着いたのが8時ちょっと前。ここの開園が10時ですから、中は見られませんでしたけれどもね。見られたのは上の景色と風力発電の風車。

そこから同じく下道で高知へでて、56号を進み、須崎の竹崎で卵焼きとおむすびの弁当を食べ、新荘川沿いの国道197号線を遡り、船戸から四万十川に沿ってくだり、鳥打ち場(四万十町打井川と四万十市三ツ又の間の峠:ここの間に海洋堂のホビー館がある)を越えて中村に帰ってきました。家についたのが13時半くらい。それから蜂の巣を落として、仮眠して、Nさんちでの飲み会にまぜてもらって・・・・、となります。

で、なにが大人になったのかというと、疲れたんですね、この一日が。
たかだかこんな行程なのに。
しかも、まだ疲れてます。

昨年はというと、子供を送ったあと、金比羅山に登ってます。
うどん屋も二軒寄ってます。
一通り歩いて、今度は祖谷温泉に行って風呂に入ってます。
それも2時間。
で、同じように下道で帰ってきたわけですが、疲れませんでした。
少なくとも今年のように途中で何度も仮眠しなくても大丈夫でした。

四十の坂を越えるとって、本当かも。

8月19日 今日の稲株

8/19 今日の稲株

米への執念2011年06月16日


昨日、奥で米を作っている友人が苗が足りなくなったというので届けました。我が家から6㎞ほど入った集落ですが、至る所に獣除けの網が張り巡らされています。そもそも苗がなくなったのも、鹿に喰われたためです。


すごいでしょ、この石かけ。あんな山の上の方まで続いています。全部田圃です。まだ機械がなかった時代に下の川から石を一つ一つ運び上げては築いたものです。先人の執念には頭が下がります。
うちの妻の田圃への執念もなかなかのものですが、やはり昔の人には負けますね。それにしても、この原動力はどこにあったのでしょう。なぜにここまでして米を作ろうとしたのでしょうか。「食べたかったから」では答えになりません。食欲は確かに人を動かしますが、嗜好より腹を満たす方が先のはずです。ならば芋や南京などの他の作物でもよさそうですが、やっぱり米。もはや信仰に近いものがあります。

ほとんど米を口にすることのできなかった昔の人が、いまわの際に竹筒に入った米の音を聞いて亡くなっていったというような話しは各地に伝わります。
米って不思議な作物ですね。



6月16日  今日の苗
6/16 今日の苗

暗香2011年02月28日

梅満開
我が家の前はちょっとした梅園になっていて、今現在その梅が満開です。午前中に小糠雨が降って、暖かいこんな晩は、梅がことのほか香ります。ついさっき、納屋にしまってある文旦を取りに外へ出たら、花は見えませんが辺り一面梅の甘い香り。暗香(あんこう)といって王朝和歌で好まれた素材でした。

 春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やはかくるる
                               (古今・春上 凡河内躬恒)
 梅が香に おどろかれつつ 春の夜の 闇こそ人は あくがらしけれ
                               (千載・春上 和泉式部)

たしかに視覚がかつ日中よりも、暗闇の中でのほうが梅は香る気がします。
もちろん月夜の梅も詠まれています。

 大空は うめのにほひに かすみつつ くもりもはてぬ 春の夜の月
                               (新古今・春上 藤原定家)

梅の匂いにかすむ空、そこにかかる朧月。さすがは定家、艶ですね。いかにも新古今らしい歌です。
新古今の梅の歌には、こんな一群もあります。

 梅が香に 昔を問へば 春の月 こたへぬ影ぞ 袖にうつれる
                               (新古今・春上 藤原家隆)
 梅の花 誰が袖ふれし 匂ひぞと 春やむかしの 月に問はばや
                               (新古今・春上 源通具)
 梅の花 あかぬ色香も むかしにて おなじ形見の 春の夜の月
                               (新古今・春上 俊成卿女)
春の月と梅の香りに昔の恋を思い出すという歌で、これはもちろん伊勢物語の
 月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして
を本歌にしたものです。さすがは新古今、艶ですな~。

都会の喧騒の中で2010年12月30日

 先日散歩していて見かけました。
釣り
3人の釣り人が釣りしてます。たぶんオイカワ釣りでしょう。
場所はこんなところ。
釣り

もうちょっと退いて撮るとこんなところ。
釣り

もっと退くとこうなってます。
釣り
場所は東京世田谷区二子玉川。多摩川に野川が合流するところ。向かって右側が兵庫島になります。いつでもどこでも釣りをする釣り人ってえらいと思います。思い起こせば3年前の正月、K君と高知に家を探しに行った時も、まだ松の内だというのに釣り人とサーファーだけは海で遊んでました。その時もK君と「あの人たち、えらいよなー。」と話した覚えがあります。

行く川の流れは2010年12月23日

行く川の流れは
 友人K君の採用が決まったので、久しく連絡を取っていなかった友人に「お祝いしよう」と電話しました。みんな喜んでいて(律儀なK君はすでにみんなに連絡してありました)、ほとんど一緒に年を越してしまいそうな日時設定にも拘わらず、予定の空いている人はみな二つ返事で「いいね、やろう。」ということになりました。これもK君の人柄です。積もる話はその時ということで、たいした話もしませんでしたが、短い話の中でもそれぞれにいろいろなことがあったみたいです。自分の時間が動いているんだからみんなの時間が動いてるのは当たり前に決まっているんですが、不覚にもなんだか友人たちは以前の友人たちのままのような気でいたんだと気づきました。これは恐ろしいことです。そして、とても恥ずかしいことです。変化こそが生命の本質なんですから。

 以前読んだ宮崎駿さんと養老孟司さんの対談(『虫眼とアニ眼』新潮文庫)で、養老さんが「現代の人間は自分は変わらないと思っているが、本来人間は絶えず変わっていくものだ。それに対して、変わらないのは情報だ。情報は止まっているものだ。だから何度でも同じものを見られる。同じ映画でも見るたびに受け止め方が変わるのは、見る側の人間が変わっていくからだ。その変わっていく人間と、変わらない情報とを、現代社会は混同してしまっている。」といった趣旨のことをいっていて、「そんなもんかねぇ」と思ったもんですが、いつの間にか自分がそうなってしまっていたようです。それはつまり、自分にとって友人たちが遠い存在になってしまっていたことを意味します。

 同じ本で養老さんはこうも言っていました。

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」
っていうのはつまり、鐘の音っていつも同じなんです。それが違って聞こえるというのは、人がひたすら変わっていくからでしょう。あるいは、
「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
川というのはいつもそこにあって、情報としての川は止まっています。けれども僕が見た時とあなたが見た時では水はやはり変わっているんですよ、という意味です。そう思ったら、人間もやはり川なんですよね。

川がそこにあることに違いはないけれども、昨日の川と今日の川は違う。変わらなくなるのはその川が消えた時だ。当たり前の話です。

 昨日、K君からの吉報の前に、元同僚のお父さんが亡くなったことを聞きました。まだお若いはずです。ご冥福をお祈りしたいと思います。悲しい知らせと嬉しい知らせ、人生はあざなえる縄のごとしとはよくいったものです。
 物理的、時間的距離に比例して、親しかった人たちが遠い存在になっていってしまうのは一面仕方のないことなのかもしれません。でも、せめて「みんな今頃何してるかなぁ・・・」くらいの感覚を持っていたいと思います。

夏の香り2010年07月24日

お米の香り
 「夏の香り。」たしかネスカフェかどこかの昔のキャッチコピーであったと思いますが、私にとって夏の香りといえば、川面を吹いてきた風のはらむスイカのような鮎の匂いと、それから何といっても稲の上を吹き渡ってきた風の、あの甘い米の香りです。ちょっと切なくなるようで、それでいて腹が減る匂い(もののあはれからはほど遠い世界ですな)。今晩は建具屋のTさんの家でこれから焼き肉です。喰うぞ~。