牛鬼の出るムラ 続 ― 2012年11月28日
一昨日書いたお祭りの、花取り踊りの動画がUチューブにアップされています。妻も言っていたとおり、見事な踊りですね。
あ、そうそう、NHKのカメラも来てたんですが、私、ちゃっかり写り込んでたらしいです。今日の夕飯時、隣のNさんから
「お父さん、テレビ映っとったね」
と妻にメールがありました。
「夜のニュース見てみます」
って返信したら、
「いや、映ってたの昨日」
あ、そうそう、NHKのカメラも来てたんですが、私、ちゃっかり写り込んでたらしいです。今日の夕飯時、隣のNさんから
「お父さん、テレビ映っとったね」
と妻にメールがありました。
「夜のニュース見てみます」
って返信したら、
「いや、映ってたの昨日」
だって。

牛鬼の出るムラ ― 2012年11月25日
今日は友人・四万十boyさんの故郷の祭りの日。
以前から招いてもらっていたんですが、当の四万十boyさんがご家庭の事情で里帰りできなくなってしまいました。残念ですが、「僕帰れないけどかまわんので行って。」と言うお言葉に甘えてお邪魔することにしました。
以前から招いてもらっていたんですが、当の四万十boyさんがご家庭の事情で里帰りできなくなってしまいました。残念ですが、「僕帰れないけどかまわんので行って。」と言うお言葉に甘えてお邪魔することにしました。


ところが、向かう山道で車酔いした長女が戻すハプニング発生。四万十boyさんのお兄さんとの約束の時間に遅れてしまいました。祭り当日のお忙しいときにご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。
さて、祭りを見物するだけと思っていたのですが、今回、貴重な体験をさせてもらいました。それは、これ。
さて、祭りを見物するだけと思っていたのですが、今回、貴重な体験をさせてもらいました。それは、これ。

これ。


牛鬼です。
ちなみに、ここ、
ちなみに、ここ、

こんなところを歩いてます。けっこう幅いっぱいです。
「今年はバンジー成功させるぞ~」って言いながら歩いてます。
「大丈夫大丈夫。竹やき軽いき」
そう言われて訳も分からぬまま入って担がせてもらいましたが、
この牛鬼、
走る。
なんか分からないけどみんなで「わーっ」て叫びながら走る
「今年はバンジー成功させるぞ~」って言いながら歩いてます。
「大丈夫大丈夫。竹やき軽いき」
そう言われて訳も分からぬまま入って担がせてもらいましたが、
この牛鬼、
走る。
なんか分からないけどみんなで「わーっ」て叫びながら走る

家々に門付けして、お酒(ビール・日本酒)をちょうだいする。
もちろん飲み干す。

道だけじゃなく、田んぼも走る。
「わーっ、田んぼ田んぼーっ」て叫びながら走る。

むりやり登る。
「崖がけっ」て叫びながら登る。だって足元しか見えないんだもん。いきなり段差が現れますが、みんなだんだんちょうだいするアルコールが効いてきて判断も反応も遅くなります。

溝を跳んで畑に入り、作物を踏み荒らしながら走る。
「溝~。跳べ飛べ~っ」て叫びながら畑へ飛んで、
「わーっ、畑はたけ~っ」って叫びながら走ります。
足元しか見えないから現れる作物を踏んで走ります。

さらに田んぼを走る。

さっきよりきつい土手を登る。無理矢理登る。

アルコールがかなりまわってきて何人かがけつまげて転がり落ちいなくなる。すぐ復帰する。

門付けしてお酒をいただく。もちろん飲み干す。

茶畑を無理矢理駆け上る。


お酒をいただく。飲み干す。
こんなところも無理矢理通って
こんなところも無理矢理通って

やっぱりお酒をいただく。飲み干す。

を約二十軒繰り返します。牛鬼の中に入っているのはほとんどが20代の人(多分)。四国電力の若手がほとんどです。おそらく私が最高齢。私、なめておりました。体の準備体操も肝臓の準備運動も何もせずに飛び込む世界じゃありませんでした。
でも来年も担がせてもらえるならぜひ参加したいです。
四万十boyさん、来年は一緒に溝跳んで法登って、作物踏み荒らしましょうね。
面白かった。いい祭りでした。
祭りはこの後も続くんですが、この後は四万十boyさんのご実家でお昼ご飯(これまたすごいご馳走・それにお酒)をご馳走になり、神輿の出発までは見ました。
でも来年も担がせてもらえるならぜひ参加したいです。
四万十boyさん、来年は一緒に溝跳んで法登って、作物踏み荒らしましょうね。
面白かった。いい祭りでした。
祭りはこの後も続くんですが、この後は四万十boyさんのご実家でお昼ご飯(これまたすごいご馳走・それにお酒)をご馳走になり、神輿の出発までは見ました。

が、ここから先は知りません。二十件分のボディーブローと強めの運動が私の体力を確実に削り取っていたのでありました。
後は妻と子供の撮った写真だけ載せますね。
御神輿が御旅所から帰ってきて

これは小学校だと思いますが、何をしてるんでしょう。この脇に駐めた車の中で私は泥のように眠りこけていたことと思います


お宮での花取り踊りです。見事だったと妻が言っておりました。


見たかった・・・。
最後は餅拾い。
最後は餅拾い。


うちの子たちもいっぱい拾ったようです。
四万十boyさんのご実家にはほんとにお世話になってしまいました。お兄さんにもようお礼も言えなかったし、お母さんにはかろうじてご挨拶できたんですが、お土産までちょうだいし、おまけに子供たちにお小遣いまでいただいてしまいました。今日初めてあったのに、「これを機会にちょくちょく遊びに来てよ。」とまで言うてもろうて、もう親戚のような扱いです。ありがたいです。
土佐はやさしや 人までも
芋収穫 ― 2011年11月08日

今日は大家のYさんの芋畑で芋の収穫。
この芋で「東山(ひがしやま)」と呼ばれる干し芋を作ります。
この芋で「東山(ひがしやま)」と呼ばれる干し芋を作ります。
神様の結婚式 ― 2011年10月07日
明後日、10月9日(日)、神様の結婚式です。

新郎は四万十市不破の不破八幡宮さん。

この神様は、船に乗って嫁神様のところへ渡御しますが、これがその花道。

対岸から見るとこうなってます。

で、こちらが相手方、一宮神社。

不破八幡宮の秋の大祭ですが、男神が女神の元へ船で渡っていくのは珍しいようです。天下の奇祭ともいわれ、なんでも時の関白一条教房さんが応仁の乱を逃れてこの街にやってきた時に、文教施策として当時行われていた略奪婚を止めさせるために始めたといわれています。(中村の人々の名誉のために一応言っておきますが、略奪婚は全国にあった風習で、室町どころか明治大正まで残っていた地方もある歴とした慣習です。略奪婚というと聞こえが悪いですが、双方合意の上の儀礼ですので、念のため)
あさって9日、不破八幡さんのお祭りを見に来ませんか。
四万十 三里に眠る遺跡の話 補足の二 ― 2010年08月05日

おんちゃんの話から 三里に伝わる伝説の話し。
この村にはえらい坊さんが緋衣を着てやって来たという話が伝わっている。緋衣は身分が高い証。これが実は平家物語で名高い熊谷直実だったと聞いた。当時、船が京都の西舞鶴から通っていた。直実はその船に乗ってきたという。今、三里の部落に熊野の牛王宝印の版木が残っているが、それは熊谷直実が持って来たものだという。この話は大正生まれの広田カオル(字が分かりません)という県の役人から聞いた。
三里の金比羅さんと島の宮の観音さんは向き合って立っている。こういう仏さんの立て方は珍しい。何か意味があるものらしい。(kawatarou注:長野の善光寺の観音さんと長野県上田市別所にある北向観音は向き合って立てられていると言います。いずれか片方だけにお参りすることを「片参り」といって忌み、必ず二つセットで参拝しなければならないと言われています。あるいは民俗学では、二柱の神の間は通りがたいものとして境界防御であると考えます。こういう考え方と何か関係があるのでしょうか。)
三里の集落内に今は四つ辻になっている「船塚」という土地がある。ムラの人は「ボケさん」と呼ぶ。ここは19尺(約6メートル)下に船が埋まっているという伝説がある。ここの地下は水が湧く所だから、本当に船があれば保存状態はいいはず。
伝説ですから全てが史実とは言えないかもしれませんが、歴史のロマンを感じます。
この村にはえらい坊さんが緋衣を着てやって来たという話が伝わっている。緋衣は身分が高い証。これが実は平家物語で名高い熊谷直実だったと聞いた。当時、船が京都の西舞鶴から通っていた。直実はその船に乗ってきたという。今、三里の部落に熊野の牛王宝印の版木が残っているが、それは熊谷直実が持って来たものだという。この話は大正生まれの広田カオル(字が分かりません)という県の役人から聞いた。
三里の金比羅さんと島の宮の観音さんは向き合って立っている。こういう仏さんの立て方は珍しい。何か意味があるものらしい。(kawatarou注:長野の善光寺の観音さんと長野県上田市別所にある北向観音は向き合って立てられていると言います。いずれか片方だけにお参りすることを「片参り」といって忌み、必ず二つセットで参拝しなければならないと言われています。あるいは民俗学では、二柱の神の間は通りがたいものとして境界防御であると考えます。こういう考え方と何か関係があるのでしょうか。)
三里の集落内に今は四つ辻になっている「船塚」という土地がある。ムラの人は「ボケさん」と呼ぶ。ここは19尺(約6メートル)下に船が埋まっているという伝説がある。ここの地下は水が湧く所だから、本当に船があれば保存状態はいいはず。
伝説ですから全てが史実とは言えないかもしれませんが、歴史のロマンを感じます。
四万十 三里に眠る遺跡の話 補足 ― 2010年08月04日
おんちゃんの話の続き。
三里がかつて貿易港だった証拠は他にもあります。
①本願寺・東福寺・蓮台寺・常楽寺といった京都ゆかりの寺が一帯に残っている。蓮台寺の大日如来の台座には、平安時代の銘がある。
②佐賀、鍋島家の末裔や、九州出の人が今も住んでいる。 等々
おんちゃんの話では、江戸時代の寛文6(1666)年までは三里の上の手洗(たらい)が港で、この年に起きた大洪水以後、下田に港が移ったそうです。鍋島、竹島、楠島と言った土地はこれ以前は本当の島だったものが、大水が引いたら陸になっていたんだそうです。
この大水は記録にも残っています。
寛文六丙午七月七・八両日大風水、大川筋・小谷つへぬけ(山崩)埋り、大川筋皆々流失、人馬流死致す。中村下町大堤(岩崎堤防)切れ、家一軒も不残、町は川原に成。死人夥敷事成。
どうやら崩土により堰き止められた水が決壊したらしいんですが、三里ではこの時の大水を「みな泣きながら家にとりついたまま流されていった」と言い伝えています。
三里の遺跡、このまま眠らせておくのは惜しい気がします。
三里がかつて貿易港だった証拠は他にもあります。
①本願寺・東福寺・蓮台寺・常楽寺といった京都ゆかりの寺が一帯に残っている。蓮台寺の大日如来の台座には、平安時代の銘がある。
②佐賀、鍋島家の末裔や、九州出の人が今も住んでいる。 等々
おんちゃんの話では、江戸時代の寛文6(1666)年までは三里の上の手洗(たらい)が港で、この年に起きた大洪水以後、下田に港が移ったそうです。鍋島、竹島、楠島と言った土地はこれ以前は本当の島だったものが、大水が引いたら陸になっていたんだそうです。
この大水は記録にも残っています。
寛文六丙午七月七・八両日大風水、大川筋・小谷つへぬけ(山崩)埋り、大川筋皆々流失、人馬流死致す。中村下町大堤(岩崎堤防)切れ、家一軒も不残、町は川原に成。死人夥敷事成。
どうやら崩土により堰き止められた水が決壊したらしいんですが、三里ではこの時の大水を「みな泣きながら家にとりついたまま流されていった」と言い伝えています。
三里の遺跡、このまま眠らせておくのは惜しい気がします。
四万十 三里に眠る遺跡の話 その3 ― 2010年08月03日

証拠の遺物まで出てきているのに、なぜ三里の遺跡が本格的に発掘されないか。実はその理由が分からないんです。市が2m×150mにわたり試掘して、直径1メートルの柱が出ています。炉の跡に砥石とチョウナがセットで出てきたこともあります。当然本格的に発掘となるはずなんですが、なぜかそうならない。区長が動いたはずが、なしのつぶてになる。市議が動いてたはずが、話が立ち消えになる。「あればぁやる言うとったに!なし(訳:何でだ)!」とおんちゃんが問い詰めた所、その市議さんは「止められたがよ・・・。」と答えたそうです。「誰に!」と聞くと、「それは言えん。死んだち言えん。」・・・・一体何があるんでしょう。
おんちゃんはそれでも諦めず、県知事にかけ合ったり、出来る所は片端から働きかけをしました。でも、発掘には至っていません。三里遺跡が日の目を見る日は来るのでしょうか。
おんちゃんはそれでも諦めず、県知事にかけ合ったり、出来る所は片端から働きかけをしました。でも、発掘には至っていません。三里遺跡が日の目を見る日は来るのでしょうか。
四万十 三里に眠る遺跡の話 その2 ― 2010年08月02日
四万十川河口から遡ること約7キロの三里にかつて貿易港があったことまで書きました。「え~、ホントかよ?」というのがおおかたの反応だと思います。でも、証拠があるんです。



鍋島焼き=古伊万里です。本当のところは中島誠之介先生にでも見てもらわないと分かりませんが、こんなのがなんぼでもあります。他にも、青磁・白磁や朝鮮半島系の焼き物の破片も出てきます。ところが、これ、田圃で出てくるんです。トラクターにたたかれて、破片ばかり。ごく稀に原形をとどめたものが掘り出されることもあるとか。今までに、伊万里のコップや弥生時代のものと思われる高坏チョウナ等々が出土していますが、それらは発掘した人が持っていったきりだそうです。
これだけいろいろ出てくるのですから、本格的に掘ったらよさそうなものですが、なぜかそれがそうならない。その辺のお話はまた次回・・・。
つづく
四万十 三里に眠る遺跡の話 ― 2010年07月31日
昨日は世話になった三里のおばちゃんの命日だったので、お線香をあげにいってきました。去年と同じく、「おばちゃん、おんちゃんをまだ連れて行かんとってよ」とお願いしてきました。
この三里という集落には未発掘の大遺跡(おんちゃん談)があります。以前、県が試掘をした際、次々出土する遺物に担当者が驚きの声を上げたと言います。縄文から安土桃山、江戸初期までの遺跡が残っているのが分かったんだそうです。特に室町から安土桃山にかけてはすごい。というのも、ここは江戸以前、一大貿易港だったんです。三里は現在、四万十川河口から約7キロの位置にありますが、ここまで船が入っていたんですね。 →つづく
この三里という集落には未発掘の大遺跡(おんちゃん談)があります。以前、県が試掘をした際、次々出土する遺物に担当者が驚きの声を上げたと言います。縄文から安土桃山、江戸初期までの遺跡が残っているのが分かったんだそうです。特に室町から安土桃山にかけてはすごい。というのも、ここは江戸以前、一大貿易港だったんです。三里は現在、四万十川河口から約7キロの位置にありますが、ここまで船が入っていたんですね。 →つづく

川登大橋
便利な昔の道具~唐箕~ ― 2010年06月18日

「唐箕(とうみ)」という道具を知っていますか?昔の農家ならどこの家でも持っていたもので、田舎の納屋にあったという人も多いかと思います。風の力を利用して重いものと軽いものを選り分けるこの道具、もう現役引退かというとそんなことはありません。今でも結構活躍するんですよ。稲の種籾選別の時や、麦などの脱穀後(米の場合ほとんど機械なので)に実と殻とを分ける時にも便利です。元々は名前の示すとおり中国から入ってきたもので、江戸時代の元禄年間(1680年くらい)の文献から名前が登場します。形自体は、時代、地域によって変化しているようですが、原理的に300年前と同じ道具が今でも使えるのは大したものだと思います。
(写真の唐箕は大家のYさんが小麦の穀粒選別で使っていたもの)
(写真の唐箕は大家のYさんが小麦の穀粒選別で使っていたもの)
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