閉ブログの辞 ― 2019年01月18日
閉ブログの辞

もともと極内輪な子育て備忘録的小文ですので、ご挨拶というのもおかしいとは思いますが、そうはいっても今までこんなものにお付き合いいただいた皆様に一言お礼を申し上げ、今日1月18日にこのブログを閉じたいと思います。いままで本当にありがとうございました。
ちょうど20年前の1月18日、大学で9年にわたりお世話になった師匠が急逝されました。退職まであと二ケ月、神戸の大学に移られることを楽しみにされているさなか、何もかもがまさかの出来事で、ここで私の人生は大きく変わりました。もともと「こうありたい」という目標に向かって生きていたわけでは決してなく、かつてのの文学部に何割かいた「時が来ればなるようになる」を地で行く、今の自分が見たら「あのねぇ」と説教したくなるような恥ずかしい20代でした。それがいま、ここでこんな暮らしをしています。ただ、その根っこは間違いなく先生のご薫陶を受けたあの9年間にあって、人生というのはそういう不思議なものなのですね。
移住して11年が経ちました。仕事はますます充実しています。四万十川と四万十川の人が好きで移住して、四万十川とその流域の人と関わりながら仕事ができる幸運に感謝しています。子供たちも成長し、今は高1、中1、小5、それぞれのライフサイクルがあって、昔のように家族で~が少なくなりましたが、着実にそれぞれの人生を歩んでいます。
長女C子。高1。
月並みですが勉強と部活に明け暮れています。
高校まで遠いので朝晩の送り迎えがあって(誕生日が来るまで原付免許が取れない)、生活が一変しました。土日の部活の送り迎えもあります。平日の帰りは8時過ぎ。宿題もちろんあります。小テストもちろんあります。でも好きなテレビは欠かさない。たまにスマホで親ともめます。
決して器用ではないし、要領もよくありません、やるといってから早くても30分、下手すれば1時間はかかります。
でもね、いつもの親バカであれですが、この子の一番の才能は「簡単に分かってしまわないこと」だと私は思っています。数学が好きですが、「公式暗記して当てはめて出来た!」ができない。なんでそうなるのか納得しないと、いつまでもそこに引っかかって、ほかに行かない。結果他の問題や他の教科に回す時間もなくなって、日付が変わって、最後はあきらめる、その要領の悪さを自覚しているものの、改められない(改めない)。なかなか頑固です。
今の時代のスピードには合わないかもしれません。でも、こんな子だからきっと自分自身が納得できる何かを手にすると思っています。本人は悩んでいるだろうけど。
次女U子。中1。
小さい時からそのまんま、器用で回転の速い子です。出来てすぐ飽きるので反復が嫌い、ゆっくりとか、じっくりとかが苦手です。一昨年、6年生の時はジュニアソフトテニスの全国大会、西日本大会にも出場しました。全国大会は滋賀であって、おかげで久々に家族旅行ができました。私の母親も喜んで里から見に出て来ました。中1の現在は部活部活。とにかく部活です。休みの日は練習試合か大会、少なくとも部活。プラス、ジュニアでテニス。放っておいても部活から帰ったら自分で昼飯を作って食べてますし、「U子は世話ない(手がかからない)」と妻はいいます。宿題は寝っ転がりながらやります。
長男みぃ太郎。小5になりました。
相変わらず釣りが好きです。魚がおろせるようになりました。理科が好きです。生活科が好きです(調理実習があるから)。歴史オタクになりました。戦国時代が好きで、私よりマニアックなことを知っていたりします。昨年滋賀に行ったときは関ケ原まで足を延ばしご満悦でした。彦根城、姉川、賤ケ岳にも行きました。余呉湖ではブルーギルを駆除して協力金をもらい、500円弱ではありますが、自分の手で初めてお金を稼ぎました。5年になって、何を思ったのか、みぃ太郎もテニスを始めました。人と同じことをするということをしない子でしたが、成長の段階なんでしょうか。マイペースは変わりません。話し方が回りくどいと妻によく叱られます。たしかにちょっと理屈っぽい。「あんたに似てる」と言われます。型にはまるのが苦手なので、漢字がちょっと苦手です(微妙に字体を変えちゃったりする)。
3人が3人、テニスをしていて、みんなそれぞれ練習試合や大会がある。近くて隣の黒潮町、遠ければ高知市の東部コート。C子の場合学校がバスを出してくれることもありますが、それでも朝5時くらいに学校へ送っていく必要があります。他は親の送り迎え。泊もあります。その時間のやりくりに係る労力は移住前には全く想定していませんでした。スローライフはどこへやら。でも、やっぱりそれぞれの成長が楽しみでもあり、この喜びも含めた大変さが今の子育てなんだと割り切って楽しんでいます。
さて、そして妻ですが、一昨年の9月に村の中でパン屋を始めました。いつかは「やる」と言い、周りの皆さんも「やれー、やれー。」といってくれていたある日、Tさんが「うちの倉庫、空けてやるから本気で店やれや。」と言ってくれ、内装から水道ガス電気、外壁の装飾まですべて手配してくれ、あれよあれよという間に厨房と店舗が出来上がりました。映画監督の安藤桃子さんが高知市内でキネマⅯという映画館を開きましたが、それと同じパターン。税務署、保健所への届出、経営計画作成、必要機材の購入、もちろんすべてが初めて。補助金は一切使わないと二人できめてやりました。店舗から機材まで、締めて車一台くらいでしょうか。次の問題は商品です。もともと妻が作りたかったのは玄米パン。自慢のおいしいコメも使えるし(うちのむらのコメ、本当にうまいんですよ。)何よりやたらと飲む(アルコールを)ここの人たちの健康に役立つかもしれない。玄米は食べにくいけど、パンになると手軽に食べられますからね。でも、作り方が確立されてない。世の中に玄米パンの作り方を謳う書籍はありますが、妻の目指すものとはちょっと違っていて、混ぜ物が多かったり、米粉の一部に玄米を混ぜるものだったりで、結局自分でやってみるしかない。だいぶ研究を重ねましたし周りの評価も上々でしたが、どうしても本人が出来に納得しない。一回くらい試しで出しても良さそうなものですが、製品が安定しないし、そもそも自分が食べておいしいと思わないんだから出せるわけないと言い張ります。頑固です。ちなみに、妻は普段ものの美味い不味いをいう(特に美味い)ことはほぼありません。最終的に一つ二つこれならというものも出来ないではなかったのですが、それはコスト面で断念しました。コッペ一個が300円になっちゃう。
結局、妻は自分も好きで自信もあるベーグルを軸に、地域の人が喜びそうなものを探りながら出していくことにしましたが、ふたを開けてみるとおばちゃんおんちゃんはアンパンクリームパンが好き。甘いのが好き。ベーグルはちょっと固い。天然酵母パンはもっと固い。国産小麦粉にこだわって、保存料一切使わないで、砂糖も極力抑えて作ってるのに、みんな菓子パンが好き。本当に食べてもらいたいパンにはそれぞれファンになってくれるお客さんも付きましたが、そういう状態で、ぱん生地の種類を増やすことになり、個数を稼げなくなりました。じつはこの時点で経営的にアウトです。ちょっと計算してみてください。週6日働いています。一日に出せるパンがそれだと80個くらい。一つ当たり粗利どんなに多くても100円にはならない、平均して60円くらいでしょうか。もちろん売れ残りもあります。ほら、6日で最高に稼いで15000円弱。価格を上げる手もありましたし、品数を絞って個数を作る選択肢もありました。でも、結局妻が選んだのは村のみんなが喜んでくれる種類と価格設定中心でした。その選択は、(同じ家庭内経済ですが)あのお金に厳しい妻がよくやったなと思いますし、純粋に偉い人だなと思います。「それでもあんたの稼ぎがあったからね」といいますが、ほぼボランティアみたいな店を気まぐれに臨時休暇をすることもなく1年3か月続けたその意志と体力に頭が下がります。
今はどうしても子供3人にお金がかかるので、私の収入だけでは行き詰まります。悩んだ末、店は昨年12月末をもって閉じましたが、体も壊さずに本当によくやったと思います。火、木、土の週3日のみの営業でしたが、前日から2日間かけてパンを作るうえ、火木土当日は朝食(もちろん私が作ることもあります)と長女の弁当を作って5時には店で仕込み、営業を夕方5時まで(売り切れたらもちろん閉めますが、夜までかかる片付けがある)をしていましたから、その労力たるや、私には到底真似できません。おまけに途中8時前に一度戻って長女の高校への送りがあります。店のある土曜の練習試合や大会は私が仕事をやりくりして行くことも多かったですが、日曜は「私が行く!」と言って出ていきました。この週末が、小中高バラバラできます。同じスポーツなので同じところで大会にならない。週替わりでやってきたりする。仕事が休みでも、ごろ寝の休みなんてない。
土日出張も多くて「このごろムラで会わないね」と言われる私の仕事、妻の店、長女送迎に小中高子供3人のテニス。ね、H30は我が家もちょっと大変だったでしょ。
さてさて、というところが平成31年1月現在の我が家の移住生活の実態です。甘く思い描いていたゆったりとした時間の流れる生活とはだいぶ違う気もしますが、終身雇用コースではちょっと味わうことができなかった人生を楽しく暮らしています。ありがたいことに、妻の両親も私の母も元気でいてくれていますし、妻と私の姉・妹も元気です。いつもうちの家族を陰に日向に支えてもらって、感謝しています。これが永遠にとはいかないのは分かっていますが、私たちの親にはせめて三人の子供たちが独り立ちするまで、できればひ孫の顔を見てもらえるまでは元気でいてほしいと切に願っています。
それで最後に、私ですが、実は今、病床にいます。おかげで久しぶりにブログの更新ができるわけですが、命を取られる病気ではなし、与えられた時間と思ってこれまでの生き方を振り返っています。家族と職場には申し訳ないの至りですが、今更じたばたしてもどうにもなりません。自分は身体オタクですので、整体やマッサージ、呼吸法、武術、各種体操、コーディネーショントレーニング、身体構造、野口整体から井本整体、真向法、操体法、骨ストレッチ、ロルフィング、フェルデンクライス、アレクサンダーテクニーク・・・まで、あらゆるところに首を突っ込んで、人並み以上の知識は持っているつもりでした。でも、改めていろんなものを読み、いかに分かったつもりでいたか心底痛切に思い知りました。「頭じゃなくてからだに聴く」、もちろん知ってましたが、まさにそれを知識として頭でわかっていただけでした。体の動かし方ひとつとっても、いかに雑だったか、力加減一つ、スピード一つも考えることも知らなかったか。感覚のなんと鈍かったことか。いかに体の声に耳をふさいで頭で体に無理をさせていたことか。
遅ればせながら、毎日自分の身体とじっくり対話しながら過ごしています。こんな世界が広がっていたなんて(節制した生活で病院では「僧侶みたいだ」と言われていますが、けっしてそっちの世界に足を突っ込んだわけではない)、時間と競争して働いていた先月まで全く気が付きませんでした。食事一つとっても、今は一嚙みごとに命とその命がたどった時間を感じ取ることができ、それに素直に感謝できる自分がいます。生まれてこの方素直だった経験値が低いので、髪を切って就職するみたいで気恥ずかしいのですが、実感なので仕方ない。繰り返しますが、あっちの世界に行きそうになってはいません。豆腐を食べたら大豆が育った110日間とその命、それを豆腐に仕立ててくれたにがりと水と豆腐屋さんと、それを運んできて料理してくれた人がいるという、ここに至るまでの至極あたりまえのことをきちんと感じ取れるようになったということです。サケの煮つけを味わいながら、そのサケが泳いでいた海に思いを馳せられるようになったということです。お米をかみしめながら、そのお米が稲だった時の稲田を渡る風を思い出せるようになったということです。そしてそれらの命が繋いでいくはずだった次の命にも思いを馳せられるようになったということです。
丁寧に生きるということが見え始めた気がしています。
ここから出た後、自分にとってまたきっと新しい世界が広がっていることでしょう。
ここからの人生が、また楽しみになりました。
11年たってみて、ここに移り住んだことは正解だったと今でも思っています。多くの出会いがあって、数えきれない出来事があって、いろんな人にお世話になって、そして、多くの別れがありました。移り住んだ先は過疎高齢地域ですから、とうぜん人生の大先輩が多いわけで、一人、また一人とお別れしなければならない時がくる。逃れようのない定めですが、やっぱりそれはとても寂しいことです。いろいろと良くしてもらいました。いろんな思い出をもらいました。みんなみんな、親切でやさしい人たちでした。
出逢えてよかったと思っています。ありがとうございました。
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